薬物依存症、アルコール依存症からの回復をサポートするリハビリテーション施設 潮騒ジョブトレーニングセンター

仲間の体験談

シンナー依存で浮遊し続けた我が魂の青春期

エン(30歳)

自分は福島県出身だが、幼稚園から20歳過ぎまで宮城県仙台市で暮らした。両親が不仲でけんかばかりして、構ってくれなかった。親にかわいがられた記憶があまりない。小学5年の時に両親が離婚し、3つ下の妹と母親の下で育った。ご飯はきちんと食べさせてくれたし、教育も受けさせてくれたけど、母親は父親の代わりのような、男勝りの人だった。生活するために水商売の仕事が忙しく、家には不在がちだった。

自分には父親が2人いる。実の父親は福島県内で中古自動車販売修理の仕事をしている。母が新たな人生のパートナーに選んだ父親は、宮城県内で2カ所の老人ホームを経営している。うち1施設は母親が施設長を務めている。2人とも苦労して施設運営のノウハウを身につけたようだ。自分も施設にいるだけに、その努力には頭が下がる。母親は人生を比較的、自由に生きているように思っていたけど、子どもの見えないところでは相当悩み苦しんでいたのだろう。

●シンナー初体験で世界が変わる

中学校は比較的まじめだったが、友達は不良っぽい子が多かった。部活には参加せず、スケートボードで遊んだ。3年になると仲間が増え、遊び半分でたばこを吸うのが当たり前になった。万引き、カツアゲ、バイク盗み…、もっと悪いことをしていたやつもいた。暴走族に入った仲間もいたが、自分は高校に進学したかったので加わらなかった。

高校はスポーツで有名な仙台の私立高校に進学した。1年の時はまじめにやっていたが、2年になると結構さぼった。カラオケ、合コン、洋服買い、など友達と一緒に繁華街に出て遊んでいるのが楽しかった。高2の秋頃、学校に行かずに遊んでいた友達の家に行くと、シンナーを吸っていた。興味本位で「俺もやりたい」と願い出て、友達を真似てビニール袋でシンナーを吸った。すぐに気持ちが良くなり、「これはハマるなあ」と友達に言ったのを覚えている。

自分には記憶がないのだが、火の付いたたばこを立てると幻覚が見えるというので、それをやったらしい。危険極まりない行為だが、たばこを吸っていて手が燃える夢を見たらしく、気が付くと洗面所で一生懸命に手を洗っている自分がいた。後で友達から「手が燃える、って叫んでたよ」と聞かされた。その日は夜中じゅうシンナーを吸っていた。

翌朝、ファミレスに入ってハンバーグを食べたが、テンパっているので自分の肉を食べているような感じに囚われ、気分が悪くなった。たった1度のシンナー体験で、もう世界の感じ方が変わっていた。自分のいる空間が漠然としている感じで、シンナーの初体験は何が何だか分からないうちに終わった。自分はシンナーに向かったが、同じワルでも学校に行ってた連中は「シンナーはダサい」と、おしゃれ感覚でマリファナに向かった。

●明らかに精神分裂(統合失調症)の症状が出てきた

結局、高校は出席日数が足りなくて、2年で中退した。やることがなく、友達の家に遊びに行き、「シンナー吸いたい」と言ったら、「一緒に取りに行こう」と誘われた。友達が働いている防水工事屋でシンナーを盗み、焼酎の瓶に入れて持ち帰った。家出して友達の家にいるのが楽しくなり、シンナー漬けになった。でも、一人ではやらず、いつもその友達と一緒にやった。シンナーなんて、いつでもやめられると思っていたし、脳が溶けて萎縮するという認識もなかった。補導されてもやめられなくなっていた。

18歳の時、住み込みでとび職のアルバイトを始めた。仕事が終わると夜中までシンナーを吸った。親方に見つかり、1度だけボコボコにされたが、それでも隠れて吸っていた。その後も何度か家出を繰り返し、アルバイトを転々としながら、うまくシンナーを使った。一時期、彼女と同棲した経験がある。その時は半年ぐらいシンナーがとまったが、生活費に行き詰まり別れた。

その頃には後遺症が出てきた。頭ではしゃべっているのだが、それが実際に言葉になって出てくるのに時間がかかる。明らかに精神分裂病のような症状も出てきた19歳ぐらいからは友達と酒を飲みに行くようになったが、少しも楽しくなかった。だんだん鬱的な傾向が強くなっていた。

20歳の頃、母親が始めた会社の仕事を手伝うことになり、車の免許を取った。一挙に行動範囲が広まったが、シンナーを吸いながらの運転で、何度か事故を起こした。よく命を落とさなかったと思う。それまで補導で済んでいたのが、毒劇物取締法違反で逮捕され、罰金刑になり、その後は留置場送りになった。起訴され、裁判では執行猶予付きの判決を受け、実父に助けを求めた。

●神様の声が幻聴となって聞える

生活も行き詰っていたので父親のいる福島県で療養したいと願い出て、父方の祖父母と一緒に暮らした。シンナーは一時期とまったものの、今度は頭の病気が重くなり精神病院(精神科病院)に通院した。処方薬をもらうと元気になったが、思い出してはシンナーを使うようになった。使えば当然、後遺症が出る。今度は、処方薬を飲んでシンナーを使う生活が続いた。

23歳頃にまた捕まり、執行猶予の10カ月を加算され、1年8カ月の実刑で少年刑務所送りとなった。処方薬を切りたかったが、そうすると調子が悪くなり、工場にも出られずに病舎に移った。医療刑務所に移って精神安定剤を飲むようになり、調子が戻った。満期出所した時には25歳になっていた。

しかし、地元に戻るとまたシンナーを吸った。ようやくダルクにつながったが、依存症だから使ってはやめ、使ってはやめ、を繰り返した。相変わらずシンナーはとまらず、2年ぐらい過ぎた頃に潮騒JTCの前身となる施設に移った。そうして今に至っているが、潮騒でも何度かスリップを繰り返している。

自分より半年後に入寮した仲間が覚せい剤を使っていていたので、「俺もやりたい」と言って分けてもらい、使ったこともあった。何回かやったが、カネもなく、売人のところに車で行ったりして手間がかかる。お陰で自分は覚せい剤には関心が向かわなかった。

今も時おりシンナーの後遺症で、自分には神様の声が幻聴となって聞えることがある。ひどく精神的に落ち込んだが、次第にそれを受け入れるようになり、幻聴にも優しく接することができるようになった。それまで否定的だった自分にも向き合えるようになり、どうにかうまく付き合えるようになった。これも施設における回復の一助かもしれない。 

振り返ると、シンナーは自分にとって現実逃避の手段であり、必要悪ともいえるストレス発散だった。しらふではなかなか埋められない心の空白や空洞を手軽に埋めてくれた。根底には子供時代に母親に甘えられなかったことが大きいと思う。両親がいて愛情をいっぱい受けることが、子供を薬物から守ることにつながるのではないか。もちろん片親でもきちんと育っている人は多い訳で、正解はないだろうが…。

●プログラムの真髄は自分を変えること

今年で30歳。シンナー歴10年の自分だが、人生のおまけを生きているところがある。よく施設内の人間関係に行き詰まると「自分は1回死んだ人間だ、気楽にやればいいんだ」。そう言い聞かせることにしている。というのも、自分には自殺未遂の経験があるからだ。以前、施設だったアパートで首つり自殺を試みたが、天井ごと床に体が落下した。老朽化した天井が自分の体重に耐えられなかった。今では笑って話せるけど、その時父親に言われたのは「ずるい。それはないだろう」だった。その言葉で親父に対する気持ちが変わった。

施設生活は結構、うまくやれる自信がついた。でも、それは仲間を思いやって、一緒に回復を目指すという原点からの姿勢ではないような気がする。施設の慣れから来る方便というか、目の前の困難から逃げる身の処し方かもしれない。リハビリ施設だから、もっと身構えずに自然体で振る舞えることが大事なのだと思う。そうでないと、たやすくスリップにつながる。施設にいるからこそ、だめなことはだめと言える強さを持ちたい。

依存症回復のプログラムの真髄は、目の前の相手を変えようとするのではなく、まず自分を変えること。アディクトとしての自己中心的な性格をどうしたら変えられるか? まだまだステップに理解が及ばず、自分の嫌なところばかり目がいき、前向きになれない。時折、自分には芯がないのかな、とも思う。自立心が壊れているのだろうか。でも焦らず、背伸びせず、マイペースで進むしかない。一生懸命だけでなく、人生を楽しんで生きていけるようになりたい。

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