薬物依存症、アルコール依存症からの回復をサポートするリハビリテーション施設 潮騒ジョブトレーニングセンター

仲間の体験談

アルコールとパチンコ依存40年の軌跡

コバ(61歳)

私の故郷は岩手県釜石市。両親は満州の引き上げ組で、戦争の混乱の中で姉2人が死んだ。5歳上の兄がいる。戦後、父親は新日鉄関連の製鉄所に勤務し、家族は社宅住まいだった。高度経済成長期で景気がいい時代だったが、中2のときに父親が死んだ。胃がんだった。大酒のみではなかったが、戦争の嫌な思い出を酒でまぎらわしていた。奇しくも父親はアルコール依存の平均寿命の52歳だった。私は父親より10年近く長生きしている。

父の死後、私たち家族の暮らしは大変だった。兄も私も昼間働きながら、地元の夜間高校を卒業した。兄は新日鉄の幹部養成学校を卒業して製鉄所に勤務したが、私は上京して昼間は都内の歯科医院に勤め、夜は歯科技工士の専門学校で学んだ。苦労の甲斐あって国家資格を取得。その歯科医院には、帰郷するまで17年間勤めた。

●ギャンブル依存の体質が下地にあった

30歳の時に看護師と見合い結婚したものの、ある事情から籍も入れずに2カ月でスピード離婚した。みんなに祝福されて式を挙げただけに精神的に落ち込み、しばらくは帰郷して親戚の家で農作業を手伝い、回復に努めた。体調も良くなったので再び上京し、歯科医院に職場復帰した。

今度は生活も順調で、兄嫁の紹介で遠縁の女性と結婚。私が31歳、相手は24歳の看護師だった。同郷だったので結婚式は田舎で挙げた。しばらくは妻が千葉県内の病院に、私は以前からの歯科医院に通勤した。新婚生活は幸福感に満ち、ハネムーンベビーができた。結婚3年目に2番目の子供が生まれた時、田舎で伸び伸び暮らしたいと一家で帰郷した。 故郷で借家を借り、妻と私の退職金をはたいて仕事に必要な機械や営業用に中古車を購入し、歯科技工士として独立した。少しずつ仕事が増え、寝る時間もないほど繁盛した。妻は家で子供の面倒を見ながら私の仕事を支えた。運転免許を取り、配達も手伝うようになった。

家庭生活は円満で仕事も順調だった。転機となったのはパチンコ(パチスロ)だった。パチンコは好きで都内で働いていた時代からのめり込んでおり、私にはギャンブル依存の体質が下地にあった。自営だから、朝、製品の配達に行く足でそのままパチンコ屋に直行した。しかし、パチンコ資金はかさむ一方。次第に頭を下げなくても借金できる所に足を運ぶようになった。信販会社やサラ金だ。高利貸しにも手を出すようになった。おまけに、知人の借金の保証人になったことがいけなかった。本人が逃げて、私が被る羽目になった。金の工面で精神的に追い込まれると、今度は現実から逃避するために酒におぼれるようになった。

●借金の督促に怯え、現実逃避の飲酒増える

誰にも相談できないまま、借金の深みにはまり、多重債務に陥った。サラ金からの執拗な催促や電話が入り、仕事にも集中できなくなった。新たに金を借りるために、サラ金をはしごするいたちごっこで、金利だけで1件1万円以上に膨れ上がっていた。ついにブラックリストに載り、隠し通せなくなって妻に事情を話した。

火だって小さいうちは消せるが、大きくなれば手に負えない。自分の不始末なのに、母親の年金を担保にしたり、子どもが歯科技工士の仕事を継ぐので機械を買うと偽り、銀行から借金した。兄が会社の合併で釜石から千葉県に移住するので、兄の家を銀行ローンで買った負担も重かった。その兄にも泣きついて毎月2、30万を借り、それだけで800万円近くになっていた。既に銀行や金融公庫からのローンで、毎月15万円の返済義務が生じていた。すべて私が作った借金だ。離婚する前、妻が「あんたの借金を返しにいくんだ」と私に投げつけた言葉が心に突き刺さった。既に借金は返済不能な金額に膨れ上がっていた。妻はヘルパーで家計を支えてくれていた。もし、妻に隠さずに早い段階で正直にすべてを打ち明けていたら、ここまで転落人生を歩まずに済んだかもしれない。

一方で、現実逃避の飲酒は増えるばかり。仕事では信用をなくし続け、1軒また1軒と得意先を失った。ある日、意を決して病院に行った。依存症の診断はなく内科の治療だけで、「入院しますか?」と問われたが、入院すると仕事ができず収入がなくなる。約1年間、点滴を受けながら、なんとか家で仕事をした。そのうちに私は借金の督促に怯える生活に陥った。いつサラ金から電話がかかってくるか分からない。支払い日に払えないと、すぐに督促が来る。それを隠すのに必死だった。郵便配達が来る時間帯には家の前で待機した。夏休みや正月など妻や子供たちが家にいるときが恐怖だった。精神的に追い込まれ、電話と郵便配達のバイクの音に怯え、家族との会話にも支障をきたすようになっていた。

●妻に「私の20年は一体何だったの」と言われ

2002年1月。アルコールの離脱症状でのどが渇き、冷蔵庫の麦茶を飲んでいると、バケツに大量の血を吐いた。隣で妻が「もうだめよ」と諭し、約1カ月入院。既に私のアディクション問題は、家族にも暗い影を落としていた。

息子がゲームに夢中になり、精神的におかしくなった。精神分裂病(統合失笑症)の診断だった。それでも工業高校を卒業し、不安を抱えながらも投薬で持ちこたえ、神奈川の企業に就職した。しかし、何かの拍子に妻が薬を送るのを忘れると、おかしくなって帰郷した。

ある日、息子は台所で手首を切ろうとした。妻が止めに入ると、「おまえのせいだ」と私に殴りかかってきた。とっさに私はバットで息子を殴ろうとしていた。妻と娘が止めなかったら、私は息子を殺していたかもしれない。息子は奇行がひどく暴力的になり、精神病院(精神科病院)に入院させた。私のせいで家族も崩壊していた。

その息子が退院する日、私は懲りずに飲酒して迎えに行き、事故を起こした。それでなくても飲酒運転で免停となったり、追突事故で相手側の3人をむちうちにさせ逃げたことがあった。この時は自首して、政治力や知り合いのつてを使いマスコミの報道を抑え、罰金と行政処分だけで済んだ。「このままだと、いつかは人を死なすのでは…」と思いながらも、飲酒はとまらなかった。

やがて地元の精神科病院に入院するが、「俺には借金があるからATMが近くにある病院でないとだめだ」と、この期に及んでも世間体を気にしていた。退院して帰宅すると、妻が離婚届を用意して待機していた。妻の親族も同席していた。妻に「私の20年は一体何だったの」と言われた。義母の「夫婦で隠し事はいけない」という一言が心に響いた。私の手元に残ったのは、ローンがまだ700万円も残っている家だけだった。「夫婦だから権利があるでしょう」と、妻は家の権利書も持っていった。離婚した日、家には荷持が何もなかった。

●刑務所での屈辱で「無力」を認める

もはや私は故郷にいられなくなった。故郷の家はそのまま、借金もそのままして、逃げるように故郷を捨てた。兄夫婦が迎えにきて首都圏の病院に入院。しかし、退院してアパートに移ると、ここにもサラ金からの督促が続いた。私は再入院し、裁判所に自己破産を申請、生活保護を受けることになった。

病院のデイケアや断酒会などに通いながらも、私は相変わらず飲酒した。ある日、ワンカップ3本を買い、アパートで朝から飲んでいた。不動産屋が、空いていた隣の部屋の確認に来て、「朝から酒飲んでいい身分だな。おやじ、うるさいから、あっちへ行ってろ」。その一言で頭に血が上り、私は台所から包丁を持ち出して追い掛けた。刺そうとは思わなかったが、すぐにパトカーがきて、銃刀法違反の現行犯で逮捕された。

裁判で実刑となり、刑務所の独居で2カ月間暮らした。刑務所に入る時の屈辱は生涯忘れられない。素っ裸にされ、肛門まで検査された。もう、2度とこんな体験はしたくないと思った。結果的に、あの屈辱で初めて自分がアルコールに対して無力だと認めることができた。既に私は58歳になっていた。同じ薬物でもアルコールは法律で禁止されていない分だけ厄介かもしれない。

その後、専門病院を経て2007年12月に潮騒JTCにつながった。昨年11月でクリーン3年が過ぎたが、依存症歴約40年、あまりにも悲しい私の歴史だ。この先、もし許されるものならどんな形であれ故郷で暮らしたい。身勝手な言い分なのは十分に承知しているが、最後は故郷で死にたい。

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