薬物依存症、アルコール依存症からの回復をサポートするリハビリテーション施設 潮騒ジョブトレーニングセンター

仲間の体験談

ダルクや潮騒がなかったら今の自分はない

キク(52歳)

自分は、農村風景が広がる茨城県西部の出まれ。母親っ子で、子供の頃はどこに行くにもくっついて行った。その母親が、15歳の時に脳梗塞で亡くなり、転機が訪れた。生活が荒れ始め、非行に走った。地域の公立高校に入ったものの、バイクを乗り回しては解放感に浸った。16歳ごろからは地元の暴走族に入り、リーダーとして頭角を現した。

暴走族は暴力団とつながりが深い。いつしか自分も高校に行きながら組員見習いとなり、暴力団組事務所に出入りするようになった。自分が盛んにシンナーをやっていた時期で、組員から「そんな臭いのをやってないで、これをやってみろ」と勧められたのが覚せい剤だった。右腕を差し出して注射をしてもらい、一発でハマった。「なんだ、これは!」っていう感じだった。凄まじい快感が、頭の先からつま先まで一気に全身を突き抜けた。「もうシンナーなんてやってられない」。それからは覚せい剤一本やりとなった。

●組員といえども覚せい剤はご法度

高校は3年で中退。事件を起こして逮捕され、初犯で栃木県内の少年院送りになった。20歳で満期退院して組事務所に戻った。その後は覚せい剤を使いながら、仕事もせずにぶらぶらして遊んでいた。縁あって21歳で結婚し、家庭を持った。子どもが2人できて張り合いが生まれた。しかし、遊び人の若年暴力団組員に、できる仕事は限られている。

運よく隣町に飲み屋を開店できた。近くに大手企業の工場が操業しており、仕事が終わると従業員ら立ち寄るようになった。常連客も増えて繁盛した。店の経営に一生懸命だったので、10年ぐらいは覚せい剤から遠ざかった。ただ、暴力団からは抜けていなかったので、組員も店に出入りした。

そのころは、暴力団といえども覚せい剤をやるのはご法度になっていた。それでもやる者がおり、「疲れが吹き飛ぶから」と自分もしつこく組員から勧められた。遠ざかっていても、一度脳にインプットされた快感は消えてはいない。組仲間の気安さもあり、勧められてまた使うようになっていた。ほどなく覚せい剤にコントロールされるようになり、店も開けられなくなった。

自分の場合、幻覚幻聴がひどくなるのに時間はかからなかった。どこからか会話が聞こえ、「今別れた組仲間が俺をばかにしている」「受話器を上げないのに実の姉の声が電話口から聞えてくる」など幻覚幻聴が日常化した。受話器も取っていないのだから聞えるはずはないのだが、追跡妄想や猜疑心は強くなるばかり。

●妄想から組仲間を包丁で刺し懲役8年

奇行も目立つようになった。「誰かが自分と姉や仲間しか知らないことをしゃべっている」「きっと誰かが機械を操作して、俺を陥れようとしているんだ」「よし、そいつを捕まえてやる」。被害妄想に囚われると、包丁を持って姉や仲間の家にいきなり乗り込んでいだ。

そうした中、妄想から実際に組仲間を包丁で刺す傷害事件を起こしてしまった。すぐに逮捕されたが、刺された仲間は全治6カ月の重傷。銃刀法違反と傷害罪で起訴され、懲役8年の実刑判決(求刑は9年)を言い渡された。36歳だった。北海道帯広刑務所に収監されて刑期を務めあげた。

しかし、暴力団組員の前科者に世間の風当たりは厳しく、出所しても自分の居場所はなかった。知り合いを頼って都内に近い組事務所に半年ぐらい厄介になった。その知り合いが覚せい剤の売人で、自分も覚せい剤を使いながら、売人の仕事を手伝った。だが、すぐに幻聴幻覚でどうしようもなくなり、実家に舞い戻った。家族の助言で2003年6月に結城市の農村部にある茨城ダルクに入寮した。

そこは施設の代表が元暴力団組長で、元暴走族や組員経験者らが多く集まり、別名「ダルクの網走番外地」と呼ばれて、ほかのダルクとは色合いが異なっていた。そこから開設間もない秋田ダルクへと移り、同所で6カ月過ごした。しかし、覚せい剤を使ったために茨城に戻された。2カ月後に神栖市の鹿島ダルク、さらに千葉ダルクへと移った。

●仕事、信用、家族、友人…何もかも失った

比較的順調に回復していたが、社会復帰を焦って覚せい剤を使ってしまい、3たび茨城ダルクへ。そして再度、鹿島ダルクに移動となり、ここで施設内のトラブルや施設運営をめぐる対立などに直面した。入寮者だった仲間と行動を共にし、鹿嶋市内にアパートを借りて施設(潮騒JTCの前身)を独立させ、現在に至っている。

最後の鹿島ダルクでは1年ほど責任者をやっていた。将来の社会復帰をにらみ、スタッフとしての自覚を持っていたものの、薬物依存症の怖さを改めて思い知った。その時は、退寮した人間が覚せい剤を持って遊びに来た。一度目は断ったが、二度目に来たときは、自分から手を差し出していた。以来、クリーン期間は長くて約2年半ほど、どうやら自分は依存症の根が深いようだ。

もう家族とは10数年会ってない。向こうはもう家族だとは思っていないだろうが…。刑務所にいる時に妻から離婚届が送られてきた。印鑑を押したときは情けないやら悔しいやら、複雑な気持ちだった。恨みに思ったこともあるが、元をただせば身から出た錆。裏街道の狂った薬物人生によって仕事、信用、家族、友人…何もかも失った。

刑務所で良かったのは覚せい剤で痛んだ体がすっかり健康になったことだ。塀の中だから当然クスリは使えない。さすがに最初の頃は「クスリには、もう2度と手を出さないぞ」と反省と誓いの日々だった。しかし、出所する頃には妙に体がそわそわしていた。あの快感を脳が覚えているから、刑務所の塀を出て自由の身になれば簡単にクスリを使ってしまうのだ。

今は各地の刑務所で薬物依存離脱指導が行われ、各地のダルクの仲間がメッセージに入っている。自分が務めた時は刑務所での離脱教育はなく、刑務所も本人の意志の弱さや周囲の環境の問題という認識から抜け切れていなかった。自分も刑務所にいる間は、依存症について全く理解が及ばなかった。ダルクにつながって初めて、自分が薬物依存症という厄介な病気だと分かった。

●クスリの切れ目が怖くてアルコールも

とにかくヤク中(=薬物依存症者)はクスリが全て。脳がいったんクスリに支配されると、思考回路はいかにクスリを手に入れるかしかなくなる。自分もある時、手に1万円持っていた。考えるより早く売人のいる土浦へ向かった。40キロ以上も離れているのに、早く覚せい剤を打ちたいという欲求だけで行動している。帰りは一文無しで電車や車には乗れないと分かっていても、どうしても打ちたい。覚せい剤を打ち、土浦から一晩中ふらふら歩いて帰ったこともある。

それ以前に、クスリ欲しさに自動販売機を荒らしたり、店で万引き(窃盗)を働いたりと、そうした犯罪で捕まるヤク中も多い。もしダルクや潮騒JTCがなく、目の前に回復を目指す仲間がいなかったら、自分の回復はない。相変わらず覚せい剤を使い、刑務所との往復が続いていただろう。

今、潮騒JTCではスタッフとして入院や外来通院の送迎の任務を主に引き受けている。「今日一日」をモットーに回復に努めているが、自分は気が荒いから、入寮者とのけんかもある。たまには、音信の途絶えた子供たちにもの凄く会いたくなることもある。上はもう30歳になるはずだ。家庭を持っているかもしれない。今の自分を冷徹に見つめ、「今さらどの面を下げて会えるのか」「とても今の自分を見せる訳にはいかない」と自分に言い聞かせ、焦らずに回復に励んでいる。

かつて飲み屋をやっていたのに、自分はあまり酒好きではない。でも、クスリをやり出してからクスリの切れ目が怖くて、その不安をごまかすためにアルコールを飲むようになった。今も酒を飲んで気持ちがいい訳じゃない。気が強くなると嫌なことが忘れられるので、つい手が出てしまう。覚せい剤を使いたいという気持ちは常にあるから、何かあればたやすく使ってしまうだろう。

若い入寮者を見ていると、こんなに壊れてはいないと思うことがある。それで安心するが、もしかして自分が一番壊れているじゃないかとも思う。ずっと施設暮らしで外(世間)に出られない分だけ重症なんだろう。先のことを考えないで、まずは一生懸命に自分自身のケアに励むしかない。

潮騒ジョブトレーニングセンター(本部)

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