一般にアルコール依存症の平均寿命は52、3歳とされる。個人差はあるとしても、自分に当てはめればあと4、5年。今は潮騒JTCでなんとかアルコールをやめているが、明日はどうなるか分からない。やはり回復の指標となる「きょう一日」の精神でやめ続けるしかない。自分はアルコール依存症と診断されて既に18年。とっくに死んでいてもいい人間だ。自助グループのミーティングでは「生きているのが奇跡」「今はハイヤーパワー(自分が信じる神)によって生かされている」と話している。
ハイヤーパワーといっても私の場合は仏教の一宗派で、かつては家族みんなで信仰していた。その意味では宗教一家と言えるだろう。皮肉なことに依存症になったことで、自分は12ステップを通して改めて信仰の大きさに目覚めた。今は施設内の自分の部屋で朝晩、手を合わせて黙想しながら、自分の仏教信仰に向かい合い、毎日生きていることに感謝している。
●親を面倒見てくれている兄の人生も狂わす
生まれは首都圏のベッドタウンとなっている千葉県の人口急増地域。父親は高校教師だったので、経済的には恵まれていた。兄弟は2歳上に兄が一人。母は専業主婦で信仰心が厚く、家族全員が感化を受け、物心が付くころには何の躊躇もなく仏壇に手を合わせていた。そんな恵まれた家庭で、私はわがままに育ってしまった。両親はとても優しく、父親には叱られた記憶がない。非行に走り、アル中になっても、父親から怒られたことはなかった。その代わり、父親と同じ教員の道に進んだ兄が、父に事あるごとに「なんで、こんなに甘やかすんだ。親としての役割を果たさないから、こいつはいつまでたってもダメなんだ」と自分を責めたてた。
兄は自分に向かって「親の財産を食い潰しやがって…」と怒りをぶつけ、「お前は俺の人生までめちゃくちゃにした。それなのに、なんでお前の面倒まで見なくちゃいけないんだ」と叱り続けた。その兄は今、実家で高齢の両親を面倒みてくれている。兄は両親の介護をするために教員をやめ、離婚して家庭も失った。自分が親に迷惑を掛け続けたから、兄の人生までも狂わせ、割を食った形になったのだと悔やんでいる。
84歳になる父親は痴呆症(認知症)で寝たきり、母も脳梗塞で倒れ、兄が病院への送迎や家事一切を担ってくれている。2人きりの兄弟なのに、両親の面倒をすべて兄に押し付けてしまった。自分が人として普通の人生を歩んでいたら、兄の人生にも悪影響を及ぼすことがなかったろう。
自分が身勝手な人生によってアル中となりながら、それでも父親が役所に掛け合ってくれて、なんとか生活保護を受けられるようになった。相変わらずアルコールはやめられず、アパートで酒を飲んでいると、怒った兄は自分を実家に連れ戻し、鍵をかけて部屋に監禁した。その時は殺したいほど兄を憎んだ。でも、今は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。きちんと棚卸しをして、いつかは兄に認められたいとは思う。でも、人でなしのアル中人生だけに、先のことは分からない。
●スポーツ少年からシンナー少年へ
自分は子供の頃はサッカー少年だった。中学時代から活躍し、県大会で準優勝した。当然ながら、スポーツの盛んな高校に進学してサッカー部に入った。しかし、そこは部員が80人の大所帯で、運動能力の高い連中が集まっているだけにレギュラーになれないと思い、早々と1年で退部してしまった。
これが転落人生の始まり。目標を失うと、中学時代の遊び仲間が入った暴走族の集会に顔を出すようになった。自分のゲートウエイドラッグ(入口となる薬物)はシンナーだった。16、17歳の頃にはシンナーを吸いながら、当時流行った「竹の子族」に入り、ディスコで夜を明かし、原宿の歩行者天国で踊った。化粧やピアスをして、派手なラメ入りチャイナドレスで踊り狂ったことが今は懐かしい。
その頃の活動資金は、当時付き合っていた歳上の風俗嬢が貢いでくれた。高校を卒業した後、その彼女と同棲し、就職せずにしばらくヒモ同然の状態が続いた。そんな自分に愛想を尽かしして、彼女は自分から去った。女々しく彼女の故郷まで追いかけたりした。その頃から少しずつ、酒におぼれるようになった。当時、薬物依存なんて言葉はなかったし、アルコールが薬物の一種だなんて意識は少しもなかった。好きだった女性に逃げられ、失意と傷心の日々を送っていたが、23歳の頃に「こんな生活ではしょうがない」と一念発起した。
●繁盛していたホルモン焼き屋をつぶす
その頃、漠然と料理関係の仕事をしたいという思いがあり、調理師の免許を取ろうと考えた。通い詰めて、築地にある老舗の割烹料理店に弟子入りすることができた。しかし、その店での修行は長くは続かず、調理師の免許を取り2年で辞め、次々に勤め先の店を変えた。
料理人の世界に足を踏み入れてからは、どの店も親方の監視が厳しく、シンナーはとまっていた。料理人の修業時代は付き合いで酒は飲むものの、シンナーからは離れ、以来今まで一度も吸っていない。ただ、当時は給料が安く、屠殺場でアルバイトの仕事をした。そこで肉流通の裏事情を知り、「これは商売になる」とヒントを得て、28歳のときに横浜の鶴見で小さなホルモン焼き屋を始めた。
資金は父親が遺産代わりにくれた贈与金だった。既に父親は高校を定年退職し、家のローンも終わっているからと、兄と私に退職金4000万円を折半して、渡してくれた。これを元手に開業した店は工業地帯で近くに競輪場もあり、大繁盛した。自分は急に懐具合がよくなり、毎晩、店が終わると馴染み客らと横浜の繁華街に繰り出した。寿町に足を延ばした折に覚せい剤にも出合った。でも、頭が痛くなり吐いてしまった。結果的に覚せい剤に関心は向かわず、その後はアルコール一筋となった。 繁盛していたホルモン焼き店だが、4年間で潰れた。寝ないで材料の仕込みをしていて、過労で倒れたのだ。32歳の時で、救急車で近くの病院に運び込まれ、即入院。見かねた家族が実家に連れ戻し、地元の病院に転院させた。しかし、夜になると抜け出しては酒を飲み、何度か強制退院を繰り返して病院を転々とし、やがて精神科病院につながった。
自分は元来、酒好きではない。むしろ「光モノ」が好きで、プラチナの腕輪や貴金属を身に付け、それで自分をアピールするようなところがある。気が付くとサラ金から約800万円もの借金があり、アル中の身では払えるはずはなく、自己破産した。38歳のときにアルコール依存症治療では実績のある精神科病院につながり、やっと専門治療を受けることになった。かなり重症で、AAや断酒会にも足を運んだが、まだ「底つき」には至らず、自分の病気を認められなかった。
●「人間はなかなか死ねないものだ」と痛感
自分は、朝から晩までだらだらと酒を飲み続ける。2時間ぐらい寝ては、また起きてひたすら飲み続ける。今まで事件らしい事件は起こしたことがないが、左足のマヒや肝炎が進行している。睡眠薬をかじりながら飲むようになってからは、「おまえのようなやつ死んでしまえ」という幻聴が聞こえるようになった。
そのうちに酒と睡眠薬を大量に飲んで、何度か自殺を試みるようになった。ある時、幻覚と幻聴から借りているマンションの3階から飛び降りたが、奇跡的に助かった。ある都市公園で木の枝にロープをかけて首をつって意識がもうろうとしているときには、ホームレスに助けられたこともあった。人間はなかなか死ねないものだと思った。そんな風にして何度か地獄を見た。命拾いした後、運よく3年前に潮騒JTCにつながった。
潮騒では2年ほどクリーン続いたが、何度かスリップした。社会で自分を試したくなったのと、「もう大丈夫じゃないか」と開き直ったのがいけなかった。施設を出ても酒を飲まなかったのはその日だけ、翌日には飲んでいた。潮騒に舞い戻ったけど、またもやスリップ。大量の血を吐き、「このままじゃ死んじゃうぞ」とスタッフからも忠告を受けた。やはりステップをきちんとやらないで退寮するとスリップする。今はステップを12までやり遂げて、少しでも親に埋め合わせをしたい。焦りがないといえば嘘になるが、今はゆっくりマイペースで回復に努めたい。