私は16歳の時から薬物を使い始めました。きっかけは新宿の地下の改札口前でシンナーの売人に声をかけられたのが始めだったと記憶しておりますが、それ以前から興味を持っていたので市販の薬(咳止め液や睡眠薬を含有する頭痛薬など)で遊んだりはしていたとは思います。理由は当時の東京では一部の人達(ロックを演るような人々)の間では良い事のように取沙汰されていたからです。私もインディ−スでバンドを組んでギターやべースを弾いてました。そしてLSD、大麻、ハッシッシ、ヘロインなども体験しました。確かにのりが良くなったり、普通の人とは違った感覚の音は出せるのですが、その代償は大き過ぎました。親には多大な借金を支払わせてしまったし、当時付き合っていた彼女にもそうでした。ヒモの様でしたし、別れた上に子供もおろす始末でした。それでも薬は止まらず仕事にも行けない体調になり、薬代の為にコイン・ランドリ−の料金箱を壊し窃盗で捕まり3ヶ月留置所に入れられ実刑1年執行猶予3年の判決で釈放されました。しかしそれでも依存症が病気だとの自覚のなかった私は、留置所の中で知り合ったヤクザから今度はシャブを買うようになってしまいました。当時、父は証券取締法違反で刑務所に入ってましたし、母は茨城の実家に帰っていました。しかしロックへの夢を捨て切れなかった私は、無一文の状態で東京に残って彼方此方を転々としました。友人のアパート、知り会ったヤクザの借りているマンション、なかでも大変だったのは統合失調症の叔母とボケはじめた祖母をかかえた伯母のアパートでした。その二人だけでも大変なのに薬物依存症の私まで一緒に生活するなんて・・・本当にいろいろな人達に迷惑をかけたと思います。この場を借りて改めて謝罪をしたいと思います。
しかしやっぱり薬物使用は止まらずやり続けていました。無一文でも親戚、友人、ヤクザが寝泊りはさせてくれるし、そのヤクザはちょっとした小間使いをすれば(運び屋的な事も含まれました。)シャブだけはただでくれたからです。閑な時や機嫌の良い時は飯を食いに連れて行ってくれましたが、ちゃんとした組員に成らないと面倒はある程度しか見ないという厳しい人だったので食うには困りました。自分はまだバンドがやりたかったのでそれ以外は友人や親戚を頼ったのです。しかし友人は愛想を尽かすし、親戚も貧乏だったので醤油やソ−ス、マヨネ−ズ、ホンダシ(ふりかけ代わりに)だけでご飯を食ったりしていました。そんな生活を繰り返しているうちにとうとう覚醒剤取締法違反で逮捕されてしまいました。窃盗の執行猶予もあったので1年10ヶ月の判決でした。丁度メガネを壊して持ってなかった私には何も見えなかったので、普通の人の倍大変な刑務所の生活でした。目が見えない事が受刑者同士でトラブルの原因になり何度も補導課に連れて行かれましたが、なんとか懲罰にはならず無事に仮釈放をもらい1年4ヶ月で出てくる事が出来ました。しばらくは親元に戻り(父も出所して母と暮らしていました。)アルバイトをして普通に暮らしていましたが、3ヶ月目には今度は刑務所で知り合った仲間からシャブを買うようになりました。月に30万円程もバイトで稼いでいたのに、あっという間にスッカラカンになり仕事にも行かなくなりました。そうしてお金が無くなったらしばらくは咳止め液で代用していました。そんな時に土木作業員の仕事を紹介され働く事になったのですが、しかし、そこの親方の娘さんと婿さんがやはり自分と同じシャブ中で一緒に1年半位の間シャブを使い続けました。仕事を変わると共にその夫婦とも疎遠になり、又、刑務所で知り合った友人もパクられたので、仕方なく咳止め液を使い続けてしまいました。しかも6〜7年もの間ろくに仕事にも行かずにです。ずいぶん長い間を幻覚や幻聴に悩まされたのですが、私の薬物使用は止まりませんでした。両親には大変な迷惑を掛けた本当に今ではそう思います。ついに堪りかねた両親は私にはお金を一銭も渡さなくなりました、しかし私は病院の調剤室や処方箋薬局にガラスを割るなどして侵入して効きそうな薬を手当たり次第に盗んで使い続けました。咳止め液や睡眠薬はもちろんのことコデインやペント・バルビタ−ル等は注射では良く効きました。こずかいは酒屋の裏のビ−ルの空き瓶をケ−スごと5〜6箱盗み別の酒屋に買い取ってもらって(1箱300円ぐらいにはなるのです。)食いつなぎました。しかしそんな生活は長く続くわけも無く、とある処方箋薬局の近くで逮捕されてしまいました。セコムが作動したのと警察も近辺を何軒も荒らしまわっていたので警戒していたのでしょう、ガラスを割った時に手を切って血だらけだった私はすぐに観念してしまいました。薬物を使い続ける生活にも疲れ果てていたのです。その時にダルクの岩井さんが裁判に来てくれて実刑2年で執行猶予を4年間もらいました。そうして31歳の時、初めてダルクに繋がりました最初は結城の茨城ダルク「今日一日ハウス」でしたが、自分の病気を理会出来てない私は1週間もしないのうちに意味も無く警察に保護してもらったり、実家に帰ったりしました。最初は家には入れてもらえず物置で寝泊りしましたが、しかしやはりガラスを割って家に入り数日居座りました。それでもうどうしようも無い事を自覚し、又、ダルクに戻ることにしました。そうすると待っていたのは「沖縄ダルクに行け!」という岩井さんの提案でした。思えばこの沖縄での生活から私の回復が始まったのではないかと思います。
沖縄という土地はまるで異国ではないかと思うぐらいに独自の文化や方言を持っていて、それに青い空と青い海、ここなら新しい自分を生きれるのではないかと思わせてくれました。しかし、同時に沖縄は日本で1,2位を争う失業率の高い県でした。10ヶ月でダルクを退寮して部屋を借りたのはいいのですが、仕事の見つからない私は結局、滋賀県に出稼ぎに行くことになりました。最初の1年はアルコ−ルだけで止まっていたのが、2年目には咳止め錠を週末だけ使うようになり、それが毎日に変わり3年目には親元に帰り(親ももう大丈夫だと安心しきっていたのでしょう、受け入れてくれました。)1年位無職のまま使い続けて、結局は親の方が家出して行方不明になり、又、茨城ダルクの世話になる事になりました。6ヶ月位すると岩井さんの方からスタッフ研修に入らないかと持ちかけられ提案に従いました。5ヶ月位の研修の後、正式にスタッフになり5万円位の給料を一度だけ貰いました。しかし当時の自分は精神病院に通っていたので、医者の処方した抗うつ剤を飲まされるようになっていました。これがいけなかった。普段は元気が無いのに抗うつ剤を飲むと、とたんに元気になるので、仲間内で「ノビさんは使っているのではないか?(覚醒剤などのアッパ−系の薬の事でしょう。)」という噂が広がって、岩井さんが「疑いを晴らす為にも施設を変えて、磐梯ダルクで一からやり直して疑いを晴らせ。」と提案してきたのでシブシブそれに従いました。スタッフという重荷からは開放されたものの、あらぬ疑いをかけられて飛ばされた私はちょっとクサってました。当時の私はステップ6、7がもう一つクリア−出来てなかったのでしょう。そんな状態のまま磐梯からアルバイトに出て途中で投げ出してしまいました。しかし、スタッフの側では「こいつはやれば出来ない事はないだろう。」と、より仕事のある鹿島ダルクに移りました。そこで1年弱すごしたでしょうか?鹿島ダルクは12畳程の部屋に二段ベッドが八つの簡易な寮で、夜に眠れない事が多かったので仲間に迷惑を掛けない為、抜け出して近くのファミレスのドリンクバ−で夜を過ごす事が多くなりました。そんなある日スタッフの一人とつまらない事から殴り合いになった私は鹿島ダルクを飛び出してしまいました。しかし行くところの無い私は、又、統合失調症で生活保護を受けている叔母の所に転がり込みました。(その時は叔母1人の名義でアパートを借りていました。)それと同時にアルコ−ルも始まり、又、同じ事の繰り返しでした。1年目はアルコ−ル、2年目は咳止め液とアルコ−ル、やはり仕事には行けなくなり、又、鹿島ダルクに帰る事となりましたが、この時は少し今までの待遇とは違いました。2ヶ月もしない内に今の施設長の栗原さんのおかげで仕事に出れるようになったのです。そして仕事が2〜3ヶ月した頃クォ−タ−・ハウスを借りてくれたのです。その頃はアルコ−ルでスリップしたりしていましたが、18年2月25日より鹿嶋潮騒ダルクとして独立した施設ができると共にクリ−ンになりました。しかし、そこでも2度もアルコ−ルでスリップをして3度も入院してしまい、3台も車の事故を起こしてしまい施設長に迷惑と心配ばかり掛けてしまいました。でも今はめげずにクリ−ンで仕事に通っています。
私はダルクと関係を持って11年になります。ヨコという仲間が先に書いていたように、最初はダルクや両親に薬物(覚醒剤、咳止め液、シンナー、睡眠薬等)が強制的に使えなくされて,親とも音信不通になりお金も無くなり、ダルクも親も恨んだりしていましたが、やけになること自体が薬物を使用する理由付けのひとつともなっているのだと気がつき、ダルクに入寮を決意しました。ダルクも茨城の結城、沖縄、磐梯、鹿島といろいろ渡り歩きましたが今の鹿嶋潮騒ダルクが一番合っているのではないかと思います。それは何故かというと、もちろん、デイケア・センターでのミーティングに参加する自由、作業や仕事に出る自由といった他のダルクより何より、自由が有るからではないかと思います。しかし薬物やアルコールの再使用の欲求が入る時もあり、使ってしまう時もありましたが、施設長も暖かく見守ってくれて、今ではなんとかもちこたえています。又、最近では最初に出会った時には「こいつは回復しそうにもにないな!」と思った仲間が、回復していく姿を見て居ることにも喜びを感じていたりするので、「スタッフとしてやっていきたい!」という気持ちもわいてきたりもますが、私もこういった、より良い回復の場を与えられたのですから「一日一日」を大切にして、どういった形にせよ社会への復帰を目指したいと本気で考えています。私は神教徒では在りませんが「一日一日を神に感謝したいと思います!」